昨日で賞味期限の切れた卵がまだあと2つも残っています、一日に二個も卵食べられないしコレステロール的な問題で食べたくないのに!とりあえず茹でとくか、そうしよう。 文章を書くのって難しいなァと感じたこと。ゆめしょーせつ特有の現象、事例なので一般化するわけにはいかないのでしょうが、少し思ったことについて。ゆめしょーせつなんてのは、シロートが素人考えで手を出した、つまるところ己の趣味と妄想のための自己満足群なので、キャラへの好き嫌いが文章に表れるのは仕方ないと思うんです。まず始めの第一歩が 「やっべぇこのキャラどつぼ! 一緒に学園生活送ってみてぇええ」 とかが出発点であるものも少なくないわけで、かくいう私もハレルヤと刹那に対する書き込み具合、話の転がし方からするに彼らへの愛がダダ漏れになっているであろうことは自覚しています(自覚した上でそれを文章化するあたり明確な確信犯)。キャラへの愛が文字列の間から透けて見える、このキャラが好きなんだろうなァというのが伝わってくる。そういうのはなんの抵抗もなくするっと飲み込むことができます、そりゃそうですよね、私もそのキャラのことが好きだからこそその作品を読んでるわけで、その時点ですでにある一定の認識を共有してるわけですから。で、問題はその認識を共有できないときです。書き手がそのキャラに対して抱いている嫌悪が、画面を通して透けて見えるとき。「この子キライ」 というのが書き始めたときの土台にあるんだろうな、何が言いたいってそれが言いたいんだろうな、というのが文字の間から伝わってくるとき。・・難しいなぁって思うんです、趣味の延長線、自己満足の発露として表現しているわけですから、書き手のキャラに対する考えが文章に滲むのは当たり前だと思うし、しょうがないとも思うんです。特にヒロインと対立したポジションにあるキャラに対して、ヒロインの一人称で書いてりゃ文章に嫌悪が滲むのはどうしようもないのかもしれませんが、それはあくまで書き手の考えであって、それを作品に思いっきり十割方反映させるのはどう・・なんだろう、とか思ってみたり。や、でも ヒロイン=自分 という前提で文章を書かれていればそれも当然の結果なのかな、そういうつもりなんてサラッサラない状態で私が日々書き殴ってるからそう感じるのかな。作品中(特に原作沿いとか)で、その行動を否定的・批判的に描写すること対して うーん? って思ってるわけじゃありません、もちろん。どっちかっていうと、「至上主義」 を掲げてその行動を正当化する意識があることのほうが、全体像をつかめないというか、理解にたどり着けないんじゃないかと思っているのでより縁遠いですし。ただそれが、「コイツ嫌い」 っていう書き手の前提に立ったものなんだろうな、っていうのが透けて見えると、ちょっと引きます。・・でもじゃあ、キャラについて深く書き込むときに書き手の意識が反映されないか、と言ったらそんなわけなくて、というかそんなこと腐っても口にできず←、結局ただ私が好きなキャラがこき下ろされたことが気に食わないだけなのかもしれないと思うに至ってぐるぐるぐるぐる。いまや星の数ほどいるそれぞれのヒロインさんたちはみんなものっそいいい子ですもんね!ヒロインっていうのは確かにその場にいる当事者でありながら、漫画なりアニメなりを見ている書き手の客観的な視点がどうしても紛れ込みやすく、しかもそういうのはどっちかっていうと原作沿いにより反映されるから 主観的でありながら第三者的視点を獲得した存在し得ないくらいいい子 になりやすいのかもしれません。そこに書き手の 「嫌い」 っていう前提が紛れ込み、対立するキャラが結構正論で叱責されていたりすると違和感を拭いきれない。・・・・うん、自分のことを棚にあげて何を言うとるんだという感はヒシヒシとしていますが、こんなこと手の届かない棚にでもあげておかないと冷静に分析できません、授業中に何を一生懸命考えているのかと思えば!← 結局何が言いたかったのかっていうと、・・・・・ゆで卵どうしたらいいもんですかね、これ。
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