ホワイト、ミルク、ビター 前
(主人公:月森孝介)
二月十四日、バレンタインデー。ここ最近は製菓会社の策略により逆チョコなどという 「めんどくせぇもん思いついてくれたなァおい」 としか言いようのないシロモノが普及しつつあるがとりあえず、女性が男性へ愛情の告白としてチョコレートを贈るこの日。口を開けばガッカリ王子ことジュネスこと花村陽介は、いつもと同じように携帯のアラームで起床し、いつもと同じように惰眠を貪る居候を叩き起こし、いつもと同じように朝っぱらから無駄にテンションの高い阿呆を怒鳴りつけながら朝食を食べ、いつもと同じように玄関を出た。
一月は行く・二月は逃げる・三月は去る、なんて言葉は教師が生徒を追い立てるために使うものだとばかり思っていたが、月日は陽介の前を F1 並のスピードで駆け抜けていく。ついこの間年が明けたかと思ったのにもうバレンタインだ、この分じゃふと気付いたときには夏休みにでもなっているかもしれない――それならそれで、構わないけどな。首にぐるぐると巻きつけた赤いマフラー(ジライヤに合わせたとかそんなんじゃない、断じて)に吐きかけた息が、白く凍って流れていく。
「ヨースケ、どっちのほうがたくさんチョコもらえるか、クマと勝負するクマ!」
おいおい誰だよ、クマにバレンタインデーという存在を教えたアホは。二月に入り、豆まきをするよりはやくそんなことを言い始めたクマを尻目に陽介は渋い顔で答えた。こちらの世界のすべてに興味関心好奇心の尽きないクマだ、存在が知れるのは時間の問題だとしても半月も前から待ち構えさせずともいいものを。センセイはほんと物知りクマねー、ヨースケとは大違いクマ!、ときゅうきゅう抱きつくクマを見守る相棒の横顔に父性ならぬ母性を見つけたとして、誰が陽介を責められよう。月森孝介という男はまったくもって本当に、年下という生きものに甘すぎる。
『誰が落ち武者だ』
転校初日、モロキンも予想していなかったに違いないまさかの第一声で学校中の話題を掻っ攫った転校生は(なにせド田舎の高校だ、口頭による情報伝達の速さは時にネットのそれを上回る)、本人の自覚をよそにそれ以降も話題を提供し続けた。テレビに入れるとかいう超常現象からペルソナ覚醒、特捜隊の発足と事件絡みのイロイロは周囲に知られていないとしても、地元の暴走族を一人で壊滅させた伝説をもつ一年坊主から元アイドル、探偵王子と一癖も二癖もありそうな連中にセンパイ先輩と慕われている月森だ、話題に上らないはずがない―――そしてその月森が来月にはこの町を出て行くこともまた、周知の事実だった。
見上げた空が白く霞んでいる。この町を覆い隠そうとしていた霧はもうひと月も前にはらったというのに、頭のどこかがギクリとして陽介は眉根を寄せた。あまりに特異的な日々を送ってきたせいだろうか、ほんの一年にも満たなかった割に、体の隅々にまで染み付いたあの生活が未だ無意識を食んでいる。晴れ渡った冬の空、学ランの内ポケットに忍ばせた例のメガネをかけても視界は変わらない。ははっ、と小さく笑った陽介の視界にはいかにも可愛らしい小さなピンク色の紙袋を提げた女の子・・・・・・・そうだ、今日は聖なるバレンタインデーだった。
「あ、あの・・っ花村センパイ・・・!」
「え? ・・・な、何かな」
「あの、これ、受け取ってもらいたくて・・、」
「・・・・・・・・・・・・・だれ、に?」
「・・・・・・・・・つ、月森センパイに渡してくださいっ!」
―――でーすーよーねー。陽介の返事も待たず、渡すだけ渡して走り去ってしまった少女の背中を見送って彼はひくりと頬を引きつらせた。精神衛生上必死になって忘れよう忘れようとしていた左手の紙袋がその存在感を強烈に訴え始める。受け取ったばかりの小さく可愛らしい紙袋を、左手の大きく無骨な紙袋に放り込んだ陽介は、ガサガサと音を立てるそれを見下ろして大きくため息をついた・・・・・これでもう朝から三個目、昨日の分も合わせると五個目になる。水の抜いてある田んぼに向け、おおきく振りかぶってぶん投げてしまいたい衝動に何度となく襲われながら、しかし実行になど移せずに陽介はよたよた学校へ向かう。
月森孝介という男は彼に贈られたチョコレートの数が示すとおり、なるほど整った顔立ちをしている。特に足が速い、とかそういうのがあるわけではないがスポーツもそつなくこなすし、ぷらぷらしているかと思いきや定期テストでは一位をさらっと取ってみせたりする(テスト期間中、勉強教えてくれと泣きついて素気無く断られたその帰り道、雨の中鮫川で釣り糸を垂らす月森を見つけたときには川に蹴落としてやろうかと本気で思った)。話してみれば案外気さくだし、あちこちで頼まれ事を引き受けてくる予想外の性分なども持ち合わせている月森だが、恋する女の子にそれらはなかなか理解されないものであるらしい。ま、パッと見、話しかけにくい感じはするけれども・・・・同じ男でありながらバレンタインチョコの運搬係をさせられるこちらの身にもなってほしいと思うのだ、切実に。
「おーっす!」
思索の海に沈んでいた陽介は背後から軽快なリズムで近づいてくる足音を聞き逃し、無防備な背中を急襲されて思わずぐらりとよろめいた。前のめりになった上体をそのままに首だけで振り返れば、予想通りの人物が悪びれた表情のカケラもなく、というかどちらかというと 「あっきれた!」 と言わんばかりの顔で陽介を見下ろしている。
「うわ、事件解決して平和になったとはいえ、アンタちょっと体なまりすぎなんじゃないの?」
「あのな、フツーの人間は朝の挨拶でそんな思いっきりド突いたりしねぇんだよ。一瞬、通り魔かと思ったぜ」
「と、通り魔ぁ!?」
陽介の言葉にきゅうっと眉を吊り上げ、反撃に転じるべく口を開いた里中はしかし、上着にしているジャージの隙間から忍び込んでくる冬の冷気に首をすくめた。お腹の部分についているポケットに両手をぐいっと押し込み、立たせた襟にあご先を埋めるように背中を丸める。
「・・てゆーか花村ぁ、今あたし見ちゃった」
「は? 何をだよ」
「うっわ、花村のクセにしらばっくれちゃってさ! なに、花村のクセに照れてんの?花村のクセに」
「“花村のクセに” 言いすぎなんだよ。つかほんと何の話してんだ、お前」
隣に並んだ陽介の表情にわざとらしいものを見つけられなかったのだろう、里中は不審そうに眉根を寄せ、表情を窺うように陽介を見上げた。
「? アンタ今、女の子にチョコレート貰ってたんじゃないの?」
――この疲労感、この徒労感、このやるせなさ! きょとんとこちらを見上げてくる里中の視線を見返したままカチリと時を止めた陽介は、しばらくしてようやく、頬の筋肉を引きつらせることに成功した。そりゃそう思うわな、あのシチュエーションじゃあ俺があの子からバレンタインチョコ貰ったみたいな風に見えるわな! 左手にぶら下げた紙袋が突然その質量を増した気がする、紐が指の腹にギチリと食い込む気がしてなんかもうやってられない、やってられるかコンチクショウ!
「・・・・・あーっと・・もしかして、違った・・?」
「“つ、月森センパイに渡してくださいっ” だとよ」
「ちょ、声色真似ないでよ気持ち悪い!」
歯に衣着せぬ里中の小気味よい物言いがしかし、このときばかりは傷心の陽介に塩をすり込み揉みこみしていく。
「やだ、このタイミングで黙んないでよ! じょーだんだって、冗談。花村は気持ち悪くはないよ」
「・・・・必死のフォローがむしろ痛いっつーか里中それ、絶妙にフォローになってねぇからな」
きょとん、と首を傾げる里中を横目に見下ろして、陽介はため息と共に首を振った。里中相手に細かいことを気にしていたら一日中そのツッコミだけで体力を消耗してしまう。今の時刻はなにせ朝の登校中だ、ここで下手に突っついて HP:1 で歯を食いしばりながら一日を過ごすことになるのは避けるべきである。ただでさえ今日は呪われたバレンタインデー、体力は最優先で保持していく方向で・・・・・最低限というか、瀕死状態でもというか。
「月森くんと比べるからダメなんだよ、しょーがないって」
「・・・・・・いや、里中サンそれもまたフォローになってないんですけど・・」
「そうじゃなくって、あたしが言いたいのは・・・・月森くん、来月で転校しちゃうでしょ?」
元々、“一年” という期限のついた引越しだった。両親の海外転勤の期間中、八十稲羽にある叔父の家で暮らすことになった月森は来月、元いた都会へ戻っていく。月森自身がそう吹聴したわけでも、周囲よりもいくらか事情に明るい陽介や里中がぺらぺら口に乗せたわけでもないが、月森が転校することは彼を知る人間ならもうほとんどが知っていることだった。転入初日から殺人事件だのテレビだのペルソナだのと、忙しい日々を送っていた月森が、ここ八十稲羽らしい凪のように穏やかな日常を自分のために過ごせるようになって一ヶ月と少し。光陰矢のごとしとは、まったくよく言ったものだ。
「今日ここで何も伝えなかったら、もう次はないかもしれないんだもん。そりゃ一生懸命にもなるよ」
自分と同じようなテンションで、同じレベルで馬鹿やることも多い里中はそのくせ、ひどくまっすぐな声でまっすぐな言葉を発する。陽介には到底真似のできない、というか里中だけが持ちえた真摯さで、彼女は言葉を力に変える。・・・その言葉の意味を自分で反芻するよりはやく、脊髄反射で台詞が飛び出してくるあたりが里中の強みで、同時に弱みであると陽介は思う。羨ましいとも、思う。
まっすぐに前を向いたままの里中を横目でチラリと捉え、陽介は自身の持つ出来うる限りの軽薄さでもって言葉を並べた。
「で、お前もチョコ持ってきたわけ? あいつに」
「もちろん! あったりまえじゃん!」
もー昨日の夜がんばっちゃったよー! ・・・・・続けて発せられた台詞に、陽介は相棒の無事を祈らないわけにはいかなかった。我らが特捜隊、直斗はその経験値ゆえに仕方ないとしても、女子メンバーの料理の腕前はまったく本当に神懸かっている・・・極めてネガティブな方向に。悪意や殺意のかけらもなく、ただひたすら純粋な好意のみが詰まっているはずなのに、彼女らの手によって創生された なにか は(食べ物、とは口が裂けても言えない)人ひとりを殺すのに十分すぎる威力を発揮するのだ、あれはもうちょっとしたテロである。林間学校の悪夢が舌の上、加えて鼻腔にまで甦ってくる気がして陽介は思わず咳き込む。
「あいつ、今日何個ぐらい稼ぐんだろーなー。ったく、羨ましいぜ」
「・・・・・・、花村!」
自身の足元に軽く視線を落としていた陽介は、里中の呼びかけにふと顔を上げた。いつの間に速度を上げたのか、陽介の2,3歩先を進む背中がくるっと振り返る。と、同時に振り上げられた右手から放られたそれ、勢いあまって頭上を飛び越えようとした包みを両手でどうにかキャッチした陽介に、前方から声が降る。
「あげる」
「は、・・・・・・・・えっ?」
「だーかーら、それ、花村にあげるっつってんの」
「・・・!」
「今年一年いろいろあったし。来年もよろしく、みたいな?」
「里中・・・・気持ちは嬉しいけど、俺、お前の気持ちには応えられブフォ・・ッ!」
「あんた、一回マジで死んでみる?」
「や、やだなー! 冗談だってば里中サーン、だからチョコ返せとか言わないで!お願いしますっ」
そう、今年のバレンタインデーはなにも呪わしいことばかりではない。月森が引っ越してきてからというもの、その必然性も多いに手伝って長い時間を過ごしてきた特捜隊。たくさんの壁にぶつかり、周囲を取り巻く様々に惑わされながらも八十稲羽を襲った事件を、覆う霧を晴らすことに邁進してきたこの一年、義理チョコの一つや二つ期待したって罰は当たらないと思うのだ。彼女らは今年の文化祭で開かれたミスコンを飾った注目株である、料理の腕に関しては露ほどの期待も抱くべきではないが、自身の胃袋にかかる負担と後々姿を現すであろうトラウマにさえ目をつぶれば、実に華々しいバレンタインデーになることは間違いなかった。
「・・・へへっ。ありがとな、里中」
「あ、お返しは三倍でよろしくー」
―――訂正する。自身の胃袋にかかる負担と後々姿を現すであろうトラウマと、三月十四日に襲いくるプレッシャーにさえ目をつぶれば、実に華々しいバレンタインデーが陽介を待ち受けている。
里中と並んで学校へ向かうその道程、月森宛のチョコをさらに二つ追加しながら向かうその道程、・・自分宛のチョコの気配なぞ毛ほども感じないその道程を終え、陽介は教室の戸を開けた。ガラガラ、と戸の開く音に目をくれたクラスメートがちらほらと挨拶をくれる、彼らに片手を挙げることで挨拶を返した陽介は、程なくして自身の前の席で机にべったり張り付くその人を見つけた。教室の後ろ側から入ってきた陽介には、色素の薄い髪が少しと制服の背中しか見えない。ここまで(精神的に)苦労して持ち運んだチョコの受取人はどうやら、自身の腕に頭を埋めてその姿勢を崩す気がないようだった。
「あ、おはよう。千枝、花村くん」
「おはよーさん」
「雪子おっはよー! ・・・・・・てゆーか、リーダーどしたの?」
「・・・・・・・・・・・ああ、里中。おはよう」
「おいおい、俺を忘れてもらっちゃ困るぜ相棒!」
「・・・・・居たのか、陽介」
相棒のこの取り付く島もないツレなさ具合も、一年経てば屁でもない。
「月森、お前今日俺にそんな口利いていいと思ってんのか?」
「・・どういう意味だ、」
返答次第じゃただじゃおかない、そんな声が聞こえてきた気がして陽介は一瞬言葉を呑む。これで意外とノリのいい月森は、陽介の突然のフリにもすぐ応えてくれることが多いし、そうでなくとも淡い微笑を返してくれる(・・そこ、スルーされてるだけじゃね?とか言わない!)。重たげな前髪のあいだからわずかにのぞく瞳がシャドウを相手にしたときのような剣呑を滲ませている、「死んでくれる?」 を使うことさえ躊躇いそうにない雰囲気だ。
「オラよ、お前宛のチョコレート! 俺はちゃんと渡したからな」
どん、とわざと少し乱暴に置いた紙袋を前に、月森はそこでようやくうつ伏せていた体を起こした。すっきりとして意志の強そうな目をぱちくりと瞬かせる姿は普段よりどこか幼く見える。月森は決して口数の多いタチではないが、その分表情がわかりやすいところがあるのだ。
「・・これ、何?」
「あのなぁ、今日を何月何日だとお思い? 二月十四日、バレンタインデーですよバレンタイン! ったく、なんでこうお前ばっかり 「・・でしまえばいい」
「・・・あ? 月森、お前いまなんか言った?」
「・・バレンタインなんて、そんなもの、滅んでしまえばいい」
一言。荒れ狂う激情でもなく、凍てつく怨嗟の念でもなく、月森の薄く形のいいくちびるからぽつりと零れたその一言からは感情というものの一切を感じることができなかった。だがそれが逆に恐怖を煽る、背筋を冷たい指でスゥとなぞられたような感覚に、陽介は言葉を忘れた。どうやらそれは自身の席についたばかりの里中にも同じだったようで、カチリと固まってしまった二人をほったらかしにしたまま、当の月森は再び自身の腕に顔を埋める。・・・・・小学生かお前はっ。
「・・・花村くんの言うとおり、今日ってほら、バレンタインでしょ?」
「・・・・・・天城、それは」
「どうせすぐバレちゃうよ、月森くん。だったら早めに白状しちゃったほうがよくない?」
まだ後編書いてる途中なんで続きは上がってないんですが、サイトはとりあえずここです⇒ 山椒の木:http://sansyou.yu-yake.com/
いまのところ、あと他に一本だけあげています・・・・もしよければ遊びにいらしてください、お待ちしています!